初めての外たび 初めてのタイ

1日目

1998年7月、早い夏休みを取り、当時、バンコク行きで一番安いと言われていた成田発air india便でバンコクへと向かった。air indiaの747ジャンボのバンコク便の後方は、まだ、喫煙可能だった。今から考えると嘘のように思えるww

外装はきれいでも、中はガタガタだったww

 

バンコクの表玄関のドムアン空港に到着し、入国手続き、荷物のピックアップを終わらせ、アライバルのロビーに出た時、沢木耕太郎の「深夜特急」で沢木が同じドムアン空港で感じたような状況と同様な雰囲気で、「よし!来たぜ!」と少し興奮したことを覚えている。

これが私の「そと旅」の第一歩だった。これから、バンコクに20年以上に渡って通うことになる。

 

それまで、グアム二回、サイパン、ソウル、ニューヨークと旅行で訪れたことがあったが、全て、当時一般的だったツアー旅行(航空券、ホテル、送迎などが込み)であった。しかし、この回からは成田ーバンコクのair indiaの航空券だけを当時急成長中だったHISで手配しただけで、その他は現地調達することにした。

一応、旅行案内本を読み、沢木耕太郎、下川裕治、熊谷仁一などの旅行作家の紀行文を読んで、勉強した。2020年現在であれば、インターネットを通じ、大量の情報を得ることやホテルの手配などが簡単に可能であるが、当時は、まだインターネット=Eメイルという時代であり、事前にホテルを予約する=日本の業者で予約するであった。

初めてのドムアン空港のアライバルロビーで、どうしようか?思案していたら、一人のロビーでホテルを斡旋している業者の人が声を掛けてきたので、カウンターで話を聞くことにした。

バンコクは初めてか?など、お決まりのやり取りをしながら、彼の話を聞いたら、日本円で3000円もあれば、バンコクの中心部にそこそこ綺麗なホテルに泊まれることがわかった。東京でバブルを経験した、我々にとっては、感覚的に3000円のホテルはただのようなもので、泊まれるのであれば、騙されてもいいや?と考え、とりあえず二泊バンコク泊と二泊パタヤ泊のホテルを紹介してもらった。そして、バウチャーを切ってもらい、タクシー乗り場まで案内してもらいホテルへ向かった。

(うろ覚えであるが、ホテルは800バーツ程度で当時1B=3円だったので、一泊二千数百円で四泊で概略1万円だったと記憶している。)

 

夕方前に空港をタクシーで空港をでて、窓から見たバンコクの街は、思っていたより大都会だな!だった。

予約したホテルは、シーロム地区の日本人が当時よく利用していたホテルで、難なくチェックインし、シャワーを浴び、一休みして夕方の街に出た。

2010年ころに閉鎖されたようだ

パッポン、タニヤには好立地だった

当然、土地勘も全くなく、地図にホテルの場所をチェックしてもらっていても、実際とは全然結びつかない状態であったので、適当に繁華街と思われる方向に自分の嗅覚を頼りにぶらぶら歩いた。そうしたら、やけに人通りが多いところに出でた。パッポン通りだった。

 

お腹も減っていたので、とりあえず夕ご飯を食べることにした。

パッポン通りのタニヤ通り側の一本先の路地に入った直ぐの所に、いろいろなメニューを壁に掲げた大衆食堂があったのでそこに入った。メニューは写真付きだったので、無難そうなチャーシューのせご飯のようなものと指さしと麺をすするジェスチャーでクイッテイアオを頼んだ。

私は、日本一の米産地の農家の出身なので、米の味にはうるさくてwwタイ米はまずくて全部食べれなかった。これから数年はタイではチャーハンしか食べなかったww

(この当時のタイ米は本当に臭かった!!!今は、臭いがしなくなって食べれるようになった。脱穀、保管、流通などの技術が向上したのだろう!)

 

ご飯代は、二品と水一本で確か?40バーツだったと思う。

 

お腹も満たされたので、パッポン通りに行った。

パチ物だらけの土産物屋は現在も健在だ。

しかし当時は、2020年現在の健全化されてきている通りとは全然違い、当時は子供を連れて通れないくらいの大人がハッスルする場所であった。

(ハッスルの内容は、ご察し下さいww)

G〇G〇Barに二軒ほど入って、お姉さんたちの水着姿を見ながらビールを数本飲んだ。

当時はビールが70バーツ位(日本円で約200円位)だったと記憶している。

朝も早かったので、眠くなったので、ホテルに帰って熟睡した。

 

2日目

朝起きたら確か10時位で、朝食の時間が終わりそうで急いで食堂に行ったことを覚えている。

食堂には、日本の旅行者の方々が数組いた。

 

当時は、今と違って、バンコク市内の移動は、バスかtuktukかTAXIしかなかった。

バスは土地勘がないので難しいので、地名やホテル名を言えば連れて行ってくれるTAXIやtuktukを利用した。

 

とりあえず、観光としては、お決まりの王宮と隣のワットポーに行くことにした。

地図を見るとフォアランポーン駅までそんな距離がなさそうで歩いていけるのでは?と考え、なんとなく行って見ようと思い歩き始めた。今考えてみると道順が難しい経路ではないのだが、一時間くらい歩いても駅につかなかったので、結局TAXIを止めて、王宮まで行った。

 

王宮とワットプラケオは、バンコクでも一番の観光名所だけあって大勢の人で込み合っていた。(その後、数回訪れたが本当にいつも混んでいる。そして入場料が高い。)

見学を終わらせて、涅槃物で有名な隣のワットポーへ向かった。

隣のワットポーに向かって歩いていると、近くのtuktukのお兄ちゃんがお決まりの「今日は閉まっている!良いとこ連れて行くから、乗らないか?」とガイドブック通りの営業を掛けてきたww

確かに。王宮前は大勢の人だかりだが、それから比べるとワットポーの方は人が少なくなるので、休みで閉まっていいると言われても、信じてしまいそうになるww

本当に大きく長い 

お決まりの大きな涅槃仏を見学し、ワットポーのもう一つの売りであるタイマッサージ・スクールでマッサージを確か?一時間受けた。

そして、タクシーでホテルまで帰った。

 

夜はタニヤのラーメン亭(今でも健在。ここ十年位ご無沙汰している。)で早くも日本食を食べた。

ラーメン・チャーハンとシンハービールを頼んだ。

考えてみると、海外で初めて食べるラーメンだった。思ったより美味しく!感じ、これ以来、バンコクに来て日本食が恋しくなると、最初のころはここのラーメンを食べに通った。

確か?日本円換算で200円程度だと記憶しているので、70B程度?だったと思う。

クイッテイアオが15バーツで食べれた時代なので、それでも数倍の値段だった。

 

そのあとは、パッポンに繰り出した。内容は、ご察し下さいww

 

3日目

この日は、パタヤへ移動だ。

 

その前に、当時は、航空券のリコンファーム(予約再確認)をしなければいけなかったので、シーロムコンプレックスの脇のルンビニー公園側の路地を入ったところに当時あったAir Indiaのオフィースで、済ませてからエカマイのバスセンターに移動することにしていた。

ホテルから近いので、チェックアウトする際に、カウンターの女性から地図に道順を書いてもらい、そしてホテルの名刺にタイ語で何か?を書いてくれた。何だ?と聞いたら、「もし迷子になったらタイ人に見せろ!貴方がair indiaに行きたい!とタイ語で書いた。」とのこと。さすが、当時、日本人が多く利用していただけあって、日本人の扱いには慣れているようだった!し、気使いがうれしかった。

 

Air Indiaのオフィースは直ぐに、見つかり、チケットを出して手続きしてもらった。

この時、確か?沢木耕太郎も香港のAir Indiaで手続きしてたよな?と、深夜特急の場面を思い出した。

無事、手続きが終わったので、タクシーでエカマイのバスセンターへ移動した。

 

エカマイのバスセンターに着くと、今と同様に「PATTAYA」と切符売りのブースが目に入る。パタヤまで切符を購入した。

当時、八十数バーツだったと記憶している。100バーツ札を出しても、窓口のおばちゃんは10バーツしかおつりをくれなかった!エッという顔をすると「チップ!マイペイライ!」ニコニコして言われてごまかされてしまったww

 

パタヤのバスターミナルについて、今と同様に客待ちをしているソンテオの運ちゃんにホテルのバウチャーをみせたら、「これに乗れ!」と言われるままに、乗って待っている発車した。丁度、ドルフィンサークルのあたりから、海が見え始めると、南国のリゾートに来たなと感じた。

ドルフィンサークルを過ぎると海が見え始める 

ビーチロードをお客さんを下ろしながら進んでいき、私の泊まるホテルの前まで連れて行ってもらえた。今考えると、ホテルはウオーキングストリートから少し入った所だった。(そのホテルは今でも健在)

無事、ホテルにチェックイン。しかし、このホテルは入れ替わり立ち替わりで「女、いらないか?」が夜中過ぎまで、何回も続いたww

ホテルをでて、数十メートルでウオーキングストリートなので、場所柄、夜にハッスルする人が多く宿泊する所だったようだww

その日の夕方は、「アルカザール」という劇場にパタヤ名物でもある俗にいうオカマショーを見に行った。多分1000人以上入るであろう劇場が当時から中国人でいっぱいなのは驚いた。当時は、パタヤの街中で今のように中国人を見かけることは珍しかった。どこに押し込められていたのだろうww

 

そのあとは、ウオーキングストリートで繰り出した。

そして、寝ていると夜中まで何回か?電話で「女、いらないか?」攻撃があったww

2020年1月撮影 

中国人だらけのwalking street 健全化してきている

 

4日目

パタヤに来て、ホテルの人や飲み屋のお姉ちゃんに話を聞くと、「泳ぐのだったらジョムテインビーチという所に行け!パタヤビーチは汚くてダメ!」とみんなが言うので、ソンテオで出かけた。

二、三時間パラソルの下でビールを飲んだり、泳いだりした。

ホテルに帰り、昼寝をしたり、夜はウオーキングストリートに出かけた。

 

5日目

バンコクに戻る日だ。

ホテルをチェックアウトして、ホテルを出たらバイタクの運ちゃんが営業を掛けて来たので、バイタクでバスセンターへ移動。初めてのバイタクだった。

エカマイのバスセンターまで無事に帰ってきた。

この日からは、ホテルを予約していなかったので、ホテルを確保する必要があった。

しかし、当時は今のようにネットで予約が出来ない時代なので、代理店に紹介してもらうか?電話で直接予約するか?直接ウオークインするか?だった。

それで、この旅行に際し、バンコクの予習をしたときに、スクインビットにナナプラザというハッスルする場所があって、その真ん前にNANA HOTELという値段ももそこそこでプールもあって、飯もうまいレストランがあるホテルがあるとあったので、目星を付けていた。(今は一階にHOOTERSが入っている)

 

エカマイのバスセンターに到着して、そこでtuktukを拾って、NANA HOTELに乗りつけた。

幸い、部屋はあるということでチェックイン。

ウエルカムドリンク(私は一階のバーでビールを一本飲んだ)、朝食のブッフェ、プールが利用出来て、ベットもキングサイズで確か?780バーツだった。日本円換算で2500円しなかった!はずだ。バブル時代を東京で過ごした私にとっては、この時、ホテルなどはこの値段でもただのように感じた。

夜は、ホテルの目の前にあるナナプラザに出かけ、ハッスル!ww

 

6日目

この当時よく読んでいた旅行作家の方々の本に出てくるカオサンに行って見た。

カオサンの通りを歩いて、寺裏の方にも行って見て、今度は、こっちに泊まってみよう!と考えた。

 

2014年1月チャオプラヤー川のボートからワットアルンを望む 

そのあと、バンコクの三大寺院で残っていたワットアルンに行った。三島由紀夫の「暁の寺」で有名な寺だ。確か?仏塔が工事中で昇れなかったと記憶している。見学していると、募金箱をもった人たちに呼び止められて、募金をするのが当たり前で・・・・云々カンプンいわれて募金200Bさせられてしまったww

 

7日目

最終日だ。

帰りの飛行機は、深夜発なので、夕方まで時間はあるので、昼頃にチェックアウトして、

ご飯を食べたり、タイマッサージを二時間したりして時間を潰した。

 

夕方になったので、タクシーでドンムアン空港に向かった。

フライトは、確か?00:30のフライトだったと思う。

ご飯を食べたり、空港の中をいろいろ見学したりして時間を潰して、三時間前の22時ころから、Air Indiaのカウンター近くの椅子に座り、カウンターが開くのを待っていた。

これからが、大変だった。

通常であれば、二時間くらい前にはカウンターがオープンして、搭乗手続きを始めるのだが、二時間前になってもオープンしないし、カウンターに人もいない!違うカンターなのか?とも思い、色々探すがカウンターは間違っていない。そこに一人のインド人がカウンターに現れ。同様にチェックインしに来る人に、指さしで「あっちに行け!」と支持している。それで、そのインド人に話を聞きに行ったら、「フライトはキャンセルだ!JALのカウンターに行け!」という。どうも、Air Indiaの便は、何らかの原因でキャンセルになったので、JALにフルかえしてくれるということらしい。そして、JALのカウンターでチケットを出すと、手続きをしてくれて、JALの搭乗券を貰え、無事に成田行きにのることが出来た。

無事に帰国できた。

 

今だったら、難なく対処出来ると思うが、その時は、どうして良いか?分からず、ハラハラした。

初めて自分で手配した航空券であり、わざわざリコンファームしに事務所まで行ったのにキャンセルで本当に嫌になった!

 

最後に

だけど、帰りのJAL便の中では、すでに正月にまた来るぞ!と決めていた。

今振り返っても、なんでそう思ったのか?は、思いつかない!

しかし、それからは、最低一年に一回は訪問している!!!

それだけの魅力があるところだ!!!

 

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