2021年11月現在、コロナの関係で、ここ足掛け2年、旅行にも出かけられずモンモンとした日々が続いている。
本来、旅行記やタイ崎などをアップしていこうと考えていたこのブログも新しい記事の種がなく、古い写真の整理などしながら、忘備録も兼ね、過去の思い出をアップしている。
先日、ミャンマーの記事を書いたときに一つ思い出したことがあった。
それは、私が地震や津波の詳細を知るのに数日かかったことだ。
その年、私は2004年12月23日の当時の天皇誕生日からバンコクを経由してミャンマーへむかった。
予定は、次のようだった。
12/23 当時の天皇誕生日 日本からバンコクへ
12/24 ミャンマー大使館へビザ取りに Expressで発行してもらい500B余計に取られてしまった
12/25 バンコクーヤンゴンの航空券購入
12/26 朝早く、ドムアン空港へ
確か?10時ころのフライトでヤンゴンへ
というスケジュールだった。
私は、国際線の場合、必ず3時間前には飛行場にいるようにしているので、朝7時ころにはドムアン空港に着いていたと思う。インドネシア・タイ時間の朝7:58(日本の朝9:58)が地震の発生時間とされているので、私は、国際的な情報が入りやすい場所にいたことになる。しかし、待合室にあるテレビでBBCやCNNなどのニュースを常時流している訳だし、そんなニュースが流れていれば、騒ぎになるであろうが、全然、普段の空港の雰囲気だった。
と言うことで、大地震のことは、何にも知らずに、ヤンゴンへ。
ヤンゴンの飛行場について、宿などの当てもなかったので、客引きのしていたタクシー運転手に声をかけられたの、宿を紹介してくれるという条件で、宿までのることに。38th streetの「May fair inn」というホテルまで連れて行ってもらった。ホテルはインド人系の夫婦がやっている小ぎれいなゲストハウスだったので、そこに泊まることに。
その日は、市内をぶらついて、ボージョーアウンサンマーケットでミャンマーの国民服のロンジーを買って、そして、両替をして、次の日の夜便のマンダレー行きのバスチケットを購入した。
12月27日は、夕方、少し郊外のバスセンターまで行かなければならないので、とりあえず、シェンダゴン・パゴダを観光した。前の日に買ったロンジーを履いていったら、親切でおせっかいな人wwが多く、ロンジーの履き方を教えてくれる人が多かった。なれないので、直ぐに着崩れてしまうので、何回も道行く人に結び直されたww多分、我々が、外国人が着物を着ているのを見ると胸元が緩んでだらしなく見えるような感じなんだろう!
そうこうしているうちに、宿にいったん帰り、預けていた荷物を持って、タクシーでアウンミンガラーバスターミナル(ちょうど新しくできたばっかりであった)にむかった。
出来立てはホヤホヤのバスターミナルらしく何もなく閑散としていたことを覚えている・
バスでマンダレーに移動し、12月28日早朝に到着。
宿の情報もこれと言ってなかったので、ガイドブックにも載っていた「garden」というホテルの客引きについて行った。
なかなか良いホテルだったので、そのまま、チェックイン。
そして、シャワーを浴び、テレビをつけて、BBCのニュースをみると、「カオラックやプーケットに津波が来た!」などと延々とやっている!なんだこれは!と思いながら、お昼ごろまで一寝入り。
ここで、何らかの地震があったことを知ったのだが、まだ、詳細や重大性はなにもわからず!
ホテルの従業員に、明日、バガンに移動したいので、チケットを買いたいと言ったら、ヤワデー川の船を勧められたが、その従業員が確保に行ってくれたが明日は満員でダメなので、バスだと言われて、バスのチケットを確保してもらった 。
そのあと、ミゼットのタクシーを雇って、マンダレーヒと旧王宮の見学と少し市内をドライブしてもらった。そして、近所の食堂で夕飯を食べて就寝 。
29日ホテルの朝食後、バスセンターへ
幼稚園の送迎バスサイズのサイズで、大人が横6人乗りでぎゅうぎゅうに詰められて出発。
日本人が私を含めて3人、そしてフランス人が4人、あとは地元の人だった。
このバスが、私が今まで乗ったバスの中で最低最悪だった。もの凄いバイブレーションのゆれだった。車が悪いのではなく、ものすごい悪路だった。胃が口から出るかと思ったし、五時間後バガンに到着したときは立っていられなく、倒れ込んでしまうくらいに内蔵が揺れまくって疲労しているような感じを生まれて初めて経験した。
この日の宿は、マンダレーの宿「Garden Hotel」の従業員から友達がやっているからと紹介された宿を予約しておいた。その宿に宿泊していた日本人の人が、暇つぶしに宿の人と迎えに来てくれていた。
夕食は、迎えに来てくれた彼と日本の中学で英語を教えているという日本語ペラペラなアメリカ人の若者とニャンウーにある富士レストランというところに行った。そこで、BBCを見たら、大地震のニュースをやっていた。それで、他の二人から、「インドネシアで大きな地震があって、大きな津波が発生してインドネシアやタイのアンダマン海側のプーケットやピピ島などは大変だったらしい!」というようなことを聞いて、初めてここで大きな地震と津波を知る。しかし、まだみんな。そんな大きな事とは思っていない様子だった。これから連日、夕食はこの富士レストランでBBCを見ながら私と迎いに来てくれた彼、英語の先生のアメリカ人そして、違う宿ではあるがミャンマーに留学しているという日本の青年の四人ですることに。
日を追うごとに、地震の規模が我々が考えていたものより問題にならないくらい大きかったことや津波の被害が甚大であるということがわかってきた。 今と違い、当時はBBCなどのニュース以外に海外で起こっていることを知ることができない時代だった。ようするに、26日午前中に起こったことの詳細を数日間はほとんど知らなかったことになる。 別にこれといった、実害があった訳ではないが、もし、これが津波の被害があるような地域だったら大変な問題だったはずだ!それを考えると、現在のネット社会の情報の速さや量には、感謝せざるを得ない!
今だに思うのだが、
「私は、地震発生時間にドンムアン国際空港に居たわけだし、ヤンゴン国際空港にも居た。」訳だが、それでもそれらしき情報と言うのを得ることが、なぜ出来なかったのか?が今でも解せない!
みんな、自分に実害がないと、みんなそんなものなのだろうか?
また、12月26日に地震と津波から17年目が訪れるが、あらためて、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。
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